ポエトリーエンジェル

武田玲奈が好き。

仮面ライダーアマゾンズで何この可愛い女優!?ってなって、追っかけ追っかけ追っかけ......ているなか、そう言えばこの子の演技よくみたことなかったわ〜てなったのでミタ。

 

ポエトリーエンジェル。

岡山天音、武田玲奈ダブル主演。飯塚俊光監督。

実家の梅農家手伝いながらうだうだ不満たらたら生きてるような死んでるような主人公が、あるきっかけで「詩ボクシング」なる競技に出会うところから話が始まる。

さて。

この主人公、ある種の男なら、めっっっちゃ苛立つ要素満載である。とにかくグダってる。人生に対して。ナメテルヒネテル。まるでついこの間の自分を見てるようですっごく苛々してくる。同時に痛々しさにひりつく。この人物設定が絶妙で、クソ野郎だけどまぁ見てみるかって気になる。

で、詩ボクシングである。

端的に言えば、朗読合戦だ。

チーム戦。それぞれ思いの丈を、語る。勝敗は審査員にお任せ。シンプルなルールだ。

それでもって、主人公チームはここまでよく振り切るなってレベルでひどい。

高校生相手の練習試合でも、ひどさは天元突破。てか詩を朗読したのは一人だけ。あとは叫んだり叫んだり、ラップしたり...と、こいつらの梅干し以下の脳しか持ってないんじゃね?ってひどさ。何しにきたお前ら。

でもってひどい結果にひとしきり落ち込む主人公。どこに落ち込む要素あったんだよ。言い訳無用じゃねーかとの心のツッコミ。

だだ、それは少しだけ上から目線の感想なんだ。

考えてみると、こんな主人公の変な自信というか、痛々しさはデジャブなのだ。というか、もしかすると、僕よりも上の世代からみれば、今の僕も十分痛々しいんだろうか?

 

さて。そこにラブリーマイポエトリーエンジェル、武田玲奈の登場。登場シーンから主人公を殴り倒したり、トレーニングしたり、スパーリングですごく雑に扱われたり......んん?これ、なんの映画ですか?

登場から学校に馴染む気なしで、終始無愛想。ずっと喋らんなーて思ってたら、実はこの子、吃音である。つっけんどんな態度も過去の経験が理由か。仕方ないね。雄弁に語れない事情を抱えた子を、この題材にあてるか。いいぞいいぞ〜

この子はチーム唯一のまともな詩を読んでた爺ちゃんの孫。腰をやった爺ちゃんの代わりに試合に出ることになる。

実はこの子、本音のところではみんなと仲良くしたいのだ。一緒にご飯食べたり、遊びに行ったりしたい。伝えられず、もどかしく、苛立ち、つっけんどんな態度してただけなのだ。

主人公の破天荒な詩の朗読(右手が草刈機になって女抱きしめたら刻んじゃった!てやつ。なにそれ。シザーハンズかよ)に影響されてか? 徐々に言葉を語れるようになる。吃音でありながらも、一生懸命に言葉を紡ぐその姿はまさに女神。朗読のシーンでの泣きの演技も堂々たるものである。

素朴な子が、本当の気持ちをゆっくり言葉にするだけで、こんなに素敵なシーンになるか。最高。

 

さて、考えてみればこの二人の主人公は同じような成長の過程を辿っている。

言葉に出来ないものを、言葉にする。

そのなかで、自分にとっての本当に大切なものに気付き、主張し、成長する。ベタな展開だけどそこがいいんだよ。ベタでいいじゃないか。バターイズベストだ。

笑いながら、ひりつきながら、最後はスッキリ謎の爽快感。いい映画です。よしなに。

 

ちなみにこの監督、このダブル主演でまた映画を撮っている。みたい。けど、九州じゃしていない。あーこれだから九州は田舎でよくない...東京に行けばもっと色々見られて、成長できて、僕ももっと...とか思った自分の痛々しさ。見事なブーメランにめまいがしてきた。

アイ・フィール・プリティ!人生最高のハプニング

ぼちぼち映画を見ている。

今月10本目。2桁見てるのね。暇なのね。

 

というわけで、今回は「アイ・フィール・プリティ!人生最高のハプニング」をアマプラで視聴。

容姿にコンプレックスを持ち、積極的になれない女性レニーが、頭打って自己肯定感ましましになって「わし美女やんけ!」て思い込んであらゆることが絶好調になるが...という話。

正味、レニーは容姿端麗とは言い難い。そんな彼女が「わし美女やんけ!」てなるのは、非常にコメディーチックで笑ってしまう。誤解を恐れずいうのであれば、苦笑である。

この映画の凄いところは、主人公の変身を心の変化で示したところにある。ハンサムスーツ的な容姿の変化ではなく、心の変化。だから最初は正直戸惑うのだ。いや、いうて何も変わってないやん!て。

物語が展開する中で、暗示が解けてしまう。自己肯定感ゼロのおブス行動連発。悲しむ彼女は自分の魔法が解けてしまったことで、全てがダメになったと思ってる。でも客は知っている。いや、だからお前何も変わってないやん!て。

このツッコミを入れるなかで、ストンと理解するはずだ。第三者視点で彼女の中で変わったものは何なのか、それを見ていたのだから。

 

自信を持て、と言うのは簡単だけど、実際のところかなり大変。

でも自己肯定感を持って、胸を張って生きるのは難しいことだけど、それって最高にクールなのだ。

わしも自信なんて皆無である。でもちょっとだけ、考えすぎなのかなって思えたかな。

 

序盤のビキニバーで割とこの話の要点がつかれている。美女に混じって美女コンテストに出たレニー。最初は嘲笑。でも彼女の姿に客は心奪われていく。コンテストは美女が優勝したけど、それについて司会者が裏でひとこと。「深夜タイヤがパンクした時に一緒にいたいのは間違いなくこの子だ」

 

つぎは1人じゃなくて女の子と見たい。

 

熱い気持ちもいつか冷めるさ、

そうあのときの自分に言ってもおそらく信じないだろう。

当時僕には好きな女の子がいた。背が高くて、とても綺麗で、つんとしているけど時々浮かべる笑顔が素敵な子だ。そんな彼女に僕は夢中だった。

というか、夢中になりすぎていた。

寝ても覚めてもその子のことが気になった。今何をしてるかな、彼氏はいるのかな、休みは何をしてるのかな、昔どんな人と付き合っていたのかな、などなど。

僕の関心は全て彼女に向けられていた。ストーカー1歩手前である。

このとき学んだ事なのだが、強すぎる憧れは恐れを生み出すものらしい。好きだけど、気になるけど、怖い。嫌われたくない。おかげでお縄につくこともなかったけれど。

ただ想像するだけで1歩を踏み出せず、ぐるぐると感情が頭の中で周り続け、すっかり疲れきった僕はついぞ彼女に何も伝えなかった。

これを評する便利な言葉がある。愚か者だ。

思い出したくもない。あれは卒業式の夜だ。酒に酔っていたわけでもないのに、僕はひとり布団の中で泣いていた。枕に顔を埋めて音を消した。もう会えないだろう、その絶望感に打ちひしがれていた。世界が終わったと思った。大切な何かがこぼれ落ちていくのを見送るしかなかったのだ。

卒業と共に、間違いなく僕の中で何かが消えた。

 

今思えば、自分に酔っていたのだろう。

学校を卒業してもう何年も経つが、今ではけろりとしている。世界は終わってないし、あの頃のまま、僕は愚か者であり続けている。

人に優しくとはいうものの、

いざするとなると難しい。

そんな余裕なんて、と思うこともある。

ぼくの行動は割と機嫌に左右されてしまうので、時折意地悪な顔が出てきたりする。差し伸べようとした手を、めんどくさい、と引っ込めることがある。そもそも無視してしまうこともある。人に向ける善意が尽きているときなんかはそれだ。

つまり余裕がなければ人に優しくなんて出来ないのだ。

人に優しくすることは当たり前の感覚であり、わざわざ気合を入れてするほどのことでもない。それは理想論だ。高度な規範意識とでもいうのか。

でも僕らは人間。感情の動物だ。時折己をコントロール出来なくなることくらいある。そのとき優しく出来ない自分が顔を出す。エゴイスティックに微笑み、いじわるを撒き散らすのだ。

ということは、だ。

逆に言えば、人に優しくするために余裕が必要なのだ。己がハッピーでなければ、人に優しくなんて出来ない。これは現実だ。

優しくする対象は、人だ。自分も含まれている。

 

人に優しくなるべきだ。人に優しくするために。